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先日、大学の研究室で、英語の論文をプレゼンする機会があった。発表するのは自分が書いたものではなく、過去に雑誌に掲載されたもの(http://www.nature.com/nature/journal/v513/n7518/full/nature13725.html)。これを読んで、図を抽出して、スライドを作って、解説するという具合だ。聞き手には日本人もいたが、大半は外国人(何故かエジプト人が多かった)。よって、発表は英語で行うことになった。

1人で30分以上、英語だけで話すというのは初めての体験だったが、実際にやってみて感じたのは、如何に自分が口先だけで生きてきたのか、ということである。私は別段英語が得意というわけでもないので、使える単語や構文は限られ、ネイティブの慣用表現もあまり知らない。そのため、なけなしの知識でなんとか表現するしかないのだが、話しているうちに自分の発言が限りなくシンプルになっていることに気がついた。つまり、「~という可能性も考えられる」とか「~という印象を受ける」といった日本語が、全て「I think that ~」と変換され、本来の意味合いよりも直接的で、正直なものになっていたのである。(今あらためて考えればそれなりの英訳を付けられるが、それを咄嗟に思いつくのは難しかった。)そして、伝えられる情報量も減った。それは「何と表現したら良いかわからない」ことによるものというより、実際に私の頭の中から知識が抜け落ちているという感覚に近かった。しかし、知識は頭から抜け落ちたのか、それとも、初めから頭の中に入っていなかったのか?

以下は私の考察である。
「…は~である」という文のみで意思疎通を行う際には、10を伝えるためには10を理解している必要がある。しかし、表現力を駆使して、より婉曲的に、ほのめかしながら話をすることで、実際には2しか口にしておらずとも、相手に対してあたかも自分が10を知っているように見せる事ができる。この効果の「被害者」には、聞いている相手だけでなく、話をしている自分自身も含まれる。つまり、実際に話をできているという事実が、自分自身に理解度以上の自信を与えているのだ。

私は日本語のプレゼンにはそこそこの自信があった。しかしそれも、無意識のうちにこの「流暢な詐術」を行い、相手と自分へ同時に幻覚を見せていただけかもしれない。そして日本語を使えないとなると、私は言葉の自由度を失い、理解の浅さが露呈することとなったのである。

思い返せば似たような経験をしたことがある。外国人と少しばかり哲学な話をした時、私はなかなか有意義な発言をすることができなかった。その際、「自分の英語力の低さが恨めしい…。本当はもう少し高尚なことを考えているのに」などと傲慢なことを思ったものだが、今になって考えてみれば、そもそも自分の頭の中にはおよそ纏まりのない考えしか詰まっていなかったのではないかと思う。

こうして考えると、多くの書物が雄弁や修辞に対し、あまり高い評価を下していないことも頷ける。すなわち、流暢に、ほのめかすように、時に誤魔化すように喋る人は、相手に対し斜に構え、自らの底を見せることを拒絶しているのだ。そして同時に、自分自身にも本当の実力を認識させないようにしているため、それ以上の進歩を生まないのである。

このような、相手との正面衝突を避ける姿勢、つまり、「受け流す」という対応は、武道(柔よく剛を制す)に限らず日常生活の全てのシーンで重要視されている。私たちは、成熟するにしたがってこの技術を無意識に獲得し、子供の頃に殴り合いの喧嘩をした記憶は、まるで前世のもののように感じられる。

しかし、本当の意味での自分の強度を知るためには、やはり相手と真っ向から向き合う他に方法はない。この時、外国語を話すことは自分を未熟な、偽らない時代に戻してくれる1つの方法なのであろう。正直な自分を相手の前に投げ出し、全く受け身を知らない状態で、周りからタコ殴りにされてみるというのも、偶には良いかもしれない。

そして勿論、このような効果は外国語の初学者の方が大きくなる。それゆえ、仮に外国語に不得手を感じているとしても、その言語を使ってなんとか話してみようとすることは、私たちに少なからぬ利益をもたらしてくれるのではないか、と思った。